お侍様 小劇場
 〜枝番

   “漂泊の宿” (お侍 番外編 31)
 


重い体を引き摺るように、宵闇の中をどのくらい歩いたか。
ここが終着か、萎えた身への支えがなくなり、
とさりと頽れ落ちた先にあったのは、いやに硬い布の感触。
仮住まいにしていたアパートの畳の匂いや、
そこへと敷いたままなせんべい布団と同じような感触だったので、
あれあれ?ちゃんとウチへ戻れたのかな?と、
それにしてはどこかで平仄が合わぬ、妙な感覚に襲われた。
薄暗いのは瞼が重くて上がらないからか、
それとも明かりそのものが乏しいところだからか。
此処までを歩き続けた町中もそういえば、何とも薄暗かったなあ。

 「〜〜〜? 〜〜か? んん?」

誰かが何か言っている。
此処へまでの間じゅうも、ずっと耳元で聞こえてた声。
不意に遠くなったり、音だけに聞こえたりしていて、
そんなに飲んでない筈なのにな。
あまり食べてないところに飲んだから回ったものか、
それとも、結構 度数の高いお酒だったのかなぁ?
肩を揺すられたけれど、分厚い布団越しみたいな感覚しかしない。
何より、返事をしようにも体が思うように動かせない。
気が滅入っていたから、それでのことなのかなぁ?

 「おや、泣いてるじゃないか。苦しいのか?」

不意に、耳元近くからそんなことを言う声がして。

 “………泣いてる?”

辛いのかい? 怖いのかい?
粘っこい声音で訊きながら、ごそごそと大きな手が頭をまさぐる。
きれいな髪だねぇと、べちゃりとした声が言う。
安物のタバコと安物のトワレの匂いがして。
何とも答えないでいると、肩を掴まれて仰向かされた。
天井は暗くて、でも、明かりはあるらしい。
ああやっぱりウチじゃあないな。
だって此処にはカーテンや枕灯が揃ってる。

 「〜〜〜?」

見覚えがあるようなないような、
そんな誰かが随分と間近からこっちを見下ろしている。
ああそうだ、さっき水割りを奢ってくれたお客さんだ。
洗い物のキリもよくって手が空いていて、
マスターが“すいませんねぇ”と先にお礼を言ってしまって。
常連さんみたいだったし、断ると角が立つだろからと、
ビール用の小さなグラスだったから大丈夫だろと、
ほんの少しのそれを頂いたんだっけ。
現実が随分と遠のいていて、音も感覚も他人ごとのよう。
何か考えるのも大変なくらいに、総身がだるい。
でも、何も考えないでいるのはもっと辛い。
だって、そうやって眠ろうとすると、
いつもいつも胸の奥がつきつきと痛む。
忘れたいことが振り払っても振り払っても浮かんで来る。
見るつもりがなかった痛い映像みたいに、
眸をつむっても瞼を貫いて滲み出してくる。


  ―― コノまマ 闇の中ニ 溶け込ンでシマいタい。


動けないはずだのに身体が揺れてる。
頭の芯が、ゆぅっくりと回り始めてる。

 「? いいね?」

何が“いい”なのか判らないけれど、
そんなに楽しいなら付き合ってあげましょう。
その代わり……誰だか知らないが、丁度いい。
このまま此処から突き落として下さいな。
幸せだったなんて、全部うそだったんだよと。
自惚れた心へ そうと思い知らせて下さいましな。


  ほんの数日前までは、
  他愛ないことへの笑みでそれはぬくぬくと暖められた、
  明るくて清かな陽だまりに身を置いていたのにね。
  今となっては、ああ なんて遠い幻だろか。
  蒼い月にも、満天の星にも背を向けて、
  ただ漂う、夜の底……






     ◇◇◇



 「あの子、大丈夫かしらねぇ。」
 「何だよ、お得意さん寝取られて気になるかい?」
 「そんなじゃないわよ。たださぁ、妙に気になる子じゃないか。」
 「そぉお? 陰気なばっかの大人しいってだけな子じゃない。」

場末の歓楽街の一角にうずくまる、間口も狭い小さなバー。
アンティークと呼ぶには中途半端な品ばかりを、
ただ寄せ集めたような装飾が、
安っぽい空間をさらに、鬱陶しい空間にしている感があり。
丁度客が途切れた間合いなのだろう、
カウンターを挟んでの向き合って、
普段着みたいな身なりのホステスたちが、
さして貫禄もなさげなマスターを相手にし、
場つなぎのお喋りなぞ始めていて。

 「マスターの知り合いなん?」
 「いやいや。いきなり裏から入って来てサ、皿洗いさせてくれって。」
 「そうそう。
  いつのだか何処のだか、アルバイト募集って貼り紙してあったの、
  此処だと思ったらしいのよねぇ?」
 「まあ、真っ黄っ黄な頭してながら、行儀もいいし大人しそうな子だし、
  手際もいいんで、続けて来てもらってんだけどね。」
 「でもさ、今時“寂しそうだね”なんて、しかもおじさんから言われてサ、
  フツーだったら、引くか笑うかしそうなもんじゃないよ。」
 「だからサ、そこが育ちが善さそうだっていうんだよ。」
 「それか、もっとイイとこの客商売してたのかもな。」

え〜? 明るいとこで見ても綺麗な肌してる子だったけど。
うんうん、幾つなんだか判んない綺麗さだった、あれは素人だよ。
そうじゃなくってさ。
なになに。
だから、大人しそうではあったけど、おどおどとはしてなかっただろうが。
そういや そうだったな。
相手の眸を見てから、話し始める子だったしね。
そっかぁ、じゃあ見かけよりお兄さんだったのかもしんないね。

 「でもさ、あのお酒は何かヤバいんじゃないの?」
 「うんうん。」
 「そんなに入ってなかったのにさ、10分としないで立ってられなくなったじゃん。」
 「見栄えはいい子だったからさ、さっそく味見したくなったんじゃない?」
 「○○さんてあれでしょ?
  昔、米軍にお得意さんがあって、そっちの方覚えちゃったとか。」
 「そうそう。味しめちゃうと女よりいいんだってねぇ。」

くくくっと、淫靡な含み笑いが起きたカウンターへ、
トンッと不意な音が立ち。
見れば空になったタンブラーを、客が置いただけの物音だったのだけれども。
そんな客が居残ってたことさえ気がつかなかったほど、
綺麗さっぱり、その気配を断っていた存在でもあって。

 「あ、すいませんね。お代わりですか?」

狭苦しいカウンターの中、
背後の棚に幾つか並べた置いたウィスキーのボトルへ、
どれにしようかと迷うように手を伸ばしたマスターには目もくれず、
その…結構上背もあった見かけぬ客は、ホステスたちへ訊いていた。


 「すまないが、今の話の“あの子”というのは……。」







     ◇◇◇



ふっと目覚めたその“目覚め”に、まずはなかなか気がつかなかった。
辺りの暗さのせいもあったし、
自分が何処にいるのか、どんな状況にあるのか、
寝付く直前のことを てんで覚えていなかったから。
眠っていたことに気がつくのへと、ちょっとした間合いが要った彼であり。

 「……。」

随分と深く眠っていたらしく、
でも、このところは
部屋の明るさのせいで起きていたのに、此処はまだ薄暗い。
まだ夜中には違いないらしくって、
あれ? だったら、こんなところで寝てる場合じゃない。
店へ行かなきゃ、せっかく仕事させてもらえてたのに。
気の弱そうな人だけど、
それでもマスター、何も聞かないでいてくれて、
アパートも、保証人になって世話してくれたのに。

 「……。」

そんなこんなと思いつつ、頬をつけてた寝具の匂いに気づく。
どこか饐えたような、かび臭い匂いが…どこからもしない?
そういえば、横になっている布団もクッションが違う。
背を覆うように掛けられているそれも、
肌合いの優しいカバーにくるまれた、ふんわりと軽い羽毛のそれだと判る。
でも…此処にそんなものがあるのはおかしい。

  だって自分は。

夜の闇で塗り潰して誤魔化してのやっと繕えているような、
擦れっからした場末にいるはずなのに。

  だって自分は。

こんな…決して押しつけがましくはなく、
傷に触れても刺激にはならず、癒してくれるばかりなもの。
肌触りのいい、ただただ優しいもの。
でもその分、高価で豪奢なもの。
そういうものを沢山、肌身で知ってはいるけど、


  ―― だって…そこから 逃げ出した筈なのに?


こんな高級な調度なぞ、この何日かは見てもない。
こんな静かで穏やかな場所にも、すっかりと縁遠くなったはず。

 「な…。」

居心地がいいはずのそれらに、
なのに、ギョッとしての慄いてしまい。
ベッドらしき寝間に腕をついて身を起こせば、
その弾みに刺激されてか、仄かに頭がくらりと揺れて、

 「―っ。」

思わずの声が洩れたほど、こめかみがきりきりと痛んだ。
それが感覚を覆ってしまったせいだろう。
身動きを止め、じっとうずくまっていたにも関わらず、
室内にあった気配が身を起こして立ち上がり、
間近へまで近づいて来たことにも気づけなくって。

 「……七郎次。」

忘れるはずのない声が、
でも、こんな場所にあるはずのない声がして。

 「…っ。」

総身が凍り、なのに背中には じわりと汗が滲んだのが判る。
中途半端に起きかけての俯いたままでおれば、
肩に手を置かれ、でも力づくで引き寄せるでなく。
馴染んだ視線が頬へと寄越され、そして、それから


  ―― 横合いから頭へと、
      こつり、額で触れられたのが判って


間近になった匂いも温みも、
気配の色も何もかも、ああ、忘れてなんかない。
自分から勝手に離れておきながら、
なのに…見もせずに判るほど、まだ忘れられないでいる。
そんなでいる自分がなんて愚かで滑稽かと哀しくなるほど、
二度と逢いたくない筈の、愛しい御主が此処にいる。
ほどかれて顔のわき、頬を覆っている髪を何度も何度も。
掻き上げられてはすべり落ちるそれを、
何度も何度も繰り返し、梳き上げる彼なのへ、

 「…。」

いたたまれなくなって顔を上げ。
それでも まだ、そちらを向けないでいるのを、

 「…。」

急かすことなく待ってくれている。
静かでおいでなのが、おやさしいのが辛い。
罵倒してくれた方がいい。
馬鹿なことをと、怒鳴ってくれた方がいい。
そうだ、さっき。
自分は妙な部屋へ連れ込まれてはなかったか?
ほんの一口で正体がなくなったような、妙な酒を飲まされて、
親切ごかしで運ばれた先、
見覚えのない部屋で横にされたのではなかったか?
何があったかまでは覚えてないが、
それらを思い出してのこと、懐ろ、胸元へと手を伏せれば、

 「バイヤーもどきのあの男なら、みぞおちを突いて眠らせた。」

上着を来たままだったから風邪は引くまい、と。
まずは吐き出すように仰ってから、
「お主へ酒以外の何を飲ませたのかが判らなんだので。」
とりあえず酒精を中和させる頓服だけを飲ませたが、と。
淡々とした声で言ってから、大きな手が背中をそおと撫でて下さって。

 「苦しいのか?」
 「…っ。」

はっとしたのは、同じような訊き方をされたから。
自分は酒のせいで苦しかった訳じゃあないのも さっきと同んなじで。

  ―― なのにどうして

さっきまではあんなに遠かった“現実”に、こうして自分がいて。
そのすぐ傍には このお人までが居るのだろ。
髪の匂いも吐息の熱も同じまま、
お別れした時のままの勘兵衛様が…どうして?


  「…………ど、して。」


手のひらが伏せられたままな背中が熱い。
視野が歪む。仄かな明るさは側卓に置かれた品のいいランプの明かり。
それに照らされ、黄昏色に染まった寝具が、自分の手が、
輪郭を滲ませて、どんどんとぼやけてゆく。
熱をもった目許。喉奥が痛い。

 捨ておいて下さればいいのに、どうして。
 私のようなものなぞ、どうして追って来て下さった。

諏訪の再興、
ただお一人だけで抵抗しておいでなの、見ているのが忍びなかった。
弱虫な、負け犬な、こんな自分なぞ、
とっとと見限って下さればよかったのに。

 「久蔵も案じておった。」
 「…。」

良親や征樹を言いくるめたのは自分だと。
木曽の当代の名乗りに際し、お主が諏訪の主として立たねば聞けぬと、
そんな我儘を言ってゴネていたらしくてな。

 「すまなんだと、自分のせいでお主が…。」
 「違います。」

彼は我儘なんかじゃないと、七郎次はかぶりを振った。
いつまでも無垢であれと、素直で廉直であれと、
あの青年をそんな和子に育てたのは他でもないこの自分だ。
なのに、こんな形で傷つけてしまって。

 「いつまでも傍にいますと言ったのに、裏切ってしまったのは私の方。」
 「シチ…。」

勘兵衛様のお傍にも、いつまでも居られはしないと判ってた。
なのに、どっちを取るかという選択を迫られた土壇場で、
往生際悪くも御主の傍へ居残ろうとした自分の強欲が、
聡明な彼にそんな魂胆を抱かせてしまい、
その結果として、二重に傷つけてしまったのだ。

 「悪いのは私です。」

もっと前に、ずっと前に、
そんな話があると聞いたおりに、きっぱりと立っておればよかったのに。
御主へと直に触れられる温もりの甘さや、
夜ごとの慈しみに流された、淫靡で醜い自分が悪い。

 “……勘兵衛様。”

野趣あふれての男臭くて、
いつまでも屈強精悍な肢体は、同じ性をも惚れ惚れとさせ。
なのに知的で、凛々しい風貌は聡明さで冴えをおび。
奥行き深い尋をお持ちの、何にも喩えの利かぬ人性は、暖かで頼もしく。
傍らにいるだけで、目をかけていただいているというだけで、
途轍もなくの誇らしくなるほどで。
そんなお方からの睦愛の求めが、何より甘美な蜜だったから。
離れがたいと想い続け、そして…
その身勝手のせいで多くの人が傷ついたのなら、
やはり、全てはわたし一人の罪だのに。


  「それで…逃げ出したというのか?」
  「…。」
  「身を遠ざけて、我らを忘れられたか? せいせいしたか?」
  「………。」


そんなことがなんで出来ようものかと、
何度も何度もかぶりを振れば。
肩を掴まれ、今度こそは強い力で引き上げられて。
雄々しくも精悍なお顔が見下ろしておいでなのと、今宵初めて視線が絡む。

 “こんな愚かな者のため、そんなお顔をなさらないで。”

眉間に心痛を深々と刻んでしまわれて、
物問いたげに、哀しそうに、沈んだお顔なぞなさらないで。
この馬鹿者がと怒鳴ってくれればいいのに、
お前なぞ知らぬと突き放してくれればいいのに。
もはや誰ぞにか穢されたかも知れない身、
どこなと行ってどうにでもなればいいのだと、
捨て置いていって下さればいいのに……。

 「言うたであろうが。」

武骨な指が不器用そうに、
乾いた頬へと零れたしずくを拭って下さり。


  「……言うたであろうが、手放すつもりはないと。」


罵倒されるより、突き放されるより、
つらくて哀しいお仕置きの声。

 ……狡いです。
   そんなまで掠れた声で、
   そんな切ないお言いようをなさるなんて。

あなたを傷つけてしまったこと、
痛いほど思い知らされるじゃあないですか。
百戦錬磨、倭の鬼神とまで呼ばれておいでのお人に、
手さえ挙げずに指さえ触れずに、そんなお顔をさせてしまうなんて。
まるで、どれほど非道な毒婦でも敵わぬような、
そんな存在みたいではないですか。


  「ならばもう、勝手は致すな。」
  「………………はい。」


  どことも知れぬ夜陰の片隅。
  月影からさえ逃れるように、
  孤独がふたぁつ、寄り添いあって。
  互いのまといし衣を取り去り、
  素肌をさらして、素顔になって。
  同じ夢追う、星枕……。






   〜Fine〜  08.10.20.


  *Y様、見てますか?(こらこら)
   小劇場 30話への、何とも美味しいメールを頂き、
   またまたすぐさま食いついた節操のない奴でございます。
   いいですね、いいですねvv
   勘兵衛様のためを思って、身を引き、姿を消してしまうシチさん。
   やっぱり失踪した母上の血をこんなところで引いてます。
(こらこら)

    >キュウさんはショックで熱でちゃいそう

   そうとお書きだったところだけ、ちょっと曲げさせて頂きました、
   ウチのは とことん甘ったれなので。(シニタイノカの刑 確定です)
   大の大人の良親殿も、本気で駄々に付き合った訳じゃあなく、
   後々のことを考えた末に、今だけ敵役に回ったんだと思われます。
   甘いと言えば勘兵衛様も、
   勝手をしおってとこっぴどく叱る…というのは達成してませんね。
   どんだけ人間が甘いんだ、自分。


  *ウチのカラーには馴染みがなさすぎる路線だので、
   小劇場の本筋とは別世界、枝番もの扱いとさせていただきますが。
   でもでも、書いてて凄いワクワクしましたようvv(こらっ)
   我儘言えば、もっと才のあるお人に書いて欲しかったかも…。
   こんなお馬鹿者ですが、また構ってやってくださいませね?


めるふぉvv
めるふぉ 置きましたvv

背景素材は
YEAR OF THE CAT』サマからお借りしました

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